「自分」の範囲はどこまでか

「自分の範囲を広げる」という認識を持つことは可能だろうか。
自分は自分を大事にするという前提があれば、「自分の範囲が広がる」ことで、少しは世の中のためになるだろうか。

常日頃からインタフェースだなんだと言っているが、自分と外界のインタフェース(界面)は浮き彫りになりつつも、頭の中のイメージとしては徐々に消失する方向に向かっているのを感じなくはない。
普段からネットばかり使っていることで、モノを物でなく情報として扱う習癖が身に付いてしまったからだろうか、物理的な界面は、情報を扱うかのごとく簡単に越えられる気がしてしまう。

自分はモノとの界面を越えて、「自分の範囲を広げる」ことでテンションがあがるだろうか。

妄想その1)
出勤中に、自分を中心とした半径10mの球を思い描いてみた。外で道を歩いていて、自分の半径10m以内のモノは全て自分だと認識するよう努める。半径10m以内の地面のアスファルトの上にゴミが落ちていたら、それを払いのけたくなるかもしれない、ゴミが減るのかもしれないと超楽観的なことを思った。
しかし、その辺のアスファルトや草木や土も含めて同化感を味わうのは、何か妙な快感を覚える。しっかりした大きな物と同化することは、まさに地に足が付き根っこまで生えたような安心感がなくはない。

妄想その2)
今度は自分の友達は、自分だと認識する。これは意外と簡単かと思いきや、アスファルトと違って同化感は想起できなかった。
自分の子供でもない限り、自分の一部と認識することは難しそうだ。「意識を共有する」ようなことは妄想できるかもしれないが、まだ自分には糸口がない気がする。

さて、自分は何か大きなものの部分であり、全体でもあるという認識を持つこと。自分自身を海原の一つの揺らぎとしてイメージするような。よくSFで、地球上のあらゆるネットワークにコネクトして、自分という個と大きな一体感を同時に認識するような状態。楳図かずおの『わたしは慎吾』の慎吾のように、「わたしは丸になった!」状態。

そういう現象・状態は想像できるが、そこに向かわせるモチベーションが何なのかがちゃんと分からなかった。

マズローの欲求5段階説をご存知だろうが、5段階の上があることはご存知だろうか?
はじめ、「自分の範囲が広がる」「大きなものとつながる」ことは3段階目「所属と愛の欲求」なのかなと思ったが、Wikipediaによると、実は5段階のもう一つ上に「自己超越」という定義があることを知った。彼の考えによると、自己超越の特徴は「統合された意識を持つ」とか「多視点的な思考ができる」とか「「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている」などがあるそうで、人口の2%のみが自己超越者(transcenders)の域に達しているそうだ。

最近の日本は、マズローの5段階目「自己実現の欲求」で盛り上がってると感じているが、いつかその欲求がおさまる(満たされる)と、今度は「自己超越の欲求」をテーマにしたような、宗教チックな自己啓発本がちまたにあふれ出すのだろうか(なんかやーね)。

だから個人的には、「自己超越の欲求」を満たす一つのヒントとして、超越のちょっと手前のような「自分の範囲を広げる」ことが何か発想を広げてくれるのではと思って、妄想している。ただ、観念レベルではなく、物理的な行動レベルのインフラをデザインすることに僕自身は関心がある(あくまで心->行動->習癖->品性->運命の枠組みが好きで、「行動」をよくデザインすることをミッションと思い込んでいる)。Brenda LaurelさんのDesigned Animismなんかは、大いにテンションがあがる。

ユビキタス/複合現実感のような現実世界とデジタル・インターネットが融合した世界を描く際、僕らはどんな本質的な要件がありうるのだろうか、自分としてもテンションあがる要件は何なのか(笑)、最近そればかりをよく考えている。その中で、もしかすると「自己超越」的な欲望がドライブするかもしれない、「どこまでが自分か?」と問うことがヒントになるかもしれない、と思った。


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